プログラム








武満徹:声(ヴォイス)

Pf.冨永愛子

今日に至るまで、ピアニストと同時に作曲家として、フランツ・リスト(1811-86)ほど高い評価を得た人物は他にいないだろう。
この作品は1838年から40年にかけて作曲された。今日よく弾かれるのはこの「超絶技巧練習曲」ではなく、11年後に改訂された「大練習曲」である。 改訂により全体の難易度は下がったとされているが、「カンパネラ」の場合には根本的に書き直されたため、「大練習曲」版の方が難易度は高い。
リストは、1832年4月20日に初めてパガニーニの演奏に接し、それからというもの1日に4~5時間、基礎練習に励んだとされる。 興味深いことに、それと並行して聖書や哲学、文学などの書物を貪るように読み、ベートーヴェン、バッハ、フンメルなども深く勉強したという。 「なんという芸術家!神よ!この4本の弦に、いったいどれほどの苦悩、苦痛、堪え難き苦しみが込められていることでしょうか!」「技術は機械的な練習からではなく、 精神から生まれるべきである」(福田弥著『作曲家◎人と作品 リスト』より引用)というリスト自身の言葉からわかるように、 パガニーニの鮮やかな技巧ばかりでなく、その精神性に強く惹きつけられた。 改訂後の「大練習曲」版では演奏効果が追求されているのに比べて、本作はピアニストとしてのリストがパガニーニから受けた印象をよりストレートに反映している。

ベリオ:作品番号獣番 (日本語訳詩:宮本楓峯昭(宮本文昭))

Pf.仲田みずほ

「ピアニストの中のピアニスト」と称されたレオポルド・ゴドフスキー(1870-1938)は、当時ポーランド領であったビリニュス生まれ。1893年から1914年にかけて、ショパンのエチュード27曲のうち26曲を用い、新たな練習曲を53曲も創作した。(取り上げられなかったop.25-7も含めて他にも何曲か手掛けた記録があるが、出版されずに現在も日の目を見ていない。)
全曲を録音したマルク=アンドレ・アムランは、「この作品の目的は左手を上達させること」と明言している。左手に極度の困難を課すのは、op.10-3「別れの曲」を基にした第5番のような左手のための作品(他にop.10-4やop.10-12などもある)だけではない。今回取り上げるop.10-1を基にした第1番も、原曲の右手の音型を左手で弾きながら、右手に別の華麗なパッセージを弾かせるという作品である。また第34番のような性格変奏の類は、まさに19世紀生まれのピアニストらしい作品である。

ラヴェル:ステファーヌ・マラルメの3つの詩 溜息soupir / 叶わぬ望みplacet futile / 臀部より出でて ひと跳びでsurgi de la croupe et du bond

Pf.米津真浩

〔ホロヴィッツ:メンデルスゾーンの結婚行進曲と変奏曲〕
没後20年を経た現在でも20世紀を代表するピアニストとして、ウラディーミル・ホロヴィッツ(1903-89)の名声は未だ衰えを知らない。だが彼自身は、「作曲家になりたかった」と度々口にしていた。学生時代、和声や対位法の授業は受けなかったが、ピアノ曲だけではなく歌曲やヴァイオリン・ソナタなども書いたようである。その後作曲活動を継続することはなかったが、オペラのピアノ・リダクション(ピアノ編曲)を得意とし、ピアニストとしてのキャリア初期においてはトランスクリプション(編曲)作品で絶大な人気を博した。
この曲は1946年11月26日にホロヴィッツ自身によって録音されている。一般にリストが編曲したものにホロヴィッツが手を加えたとされているが、参考にこそすれ抜本的に書き直されており、独自の変奏が付与されていることからもホロヴィッツのオリジナル作品と見なすことができよう。
後年にはトランスクリプションに辟易して、次第にレパートリーからはずしていったが、彼が演奏家として初期から晩年まで保ち続けたのは、華麗な技巧ではなく、オペラなどから学んだリリシズムであった点を忘れてはなるまい。

〔ヴォロドス:モーツァルトのトルコ行進曲によるパラフレーズ〕
アルカディ・ヴォロドス(1972-)はレニングラード生まれのピアニスト。世代が近いのはキーシンだが、幼い頃から天才としてもてはやされたキーシンとは違い、近年になって注目を浴びるようになった。彼を一躍有名にしたのは、ホロヴィッツやジョルジュ・シフラが手掛けた難曲をいともたやすく弾いてしまう華麗な技巧である。しかしピアノを本格的に学びだしたのは非常に遅く、それ以前には声楽を勉強していた。
本作品はデビューアルバムの最後に収録されている彼の代名詞ともいうべき作品であり、譜面が出版されていないにもかかわらず、多くのピアニストによって取り上げられている。ピアノの書法としてはホロヴィッツからの強い影響が感じられる。コーダ直前には、元来別々の2つの旋律を組み合わせた興味深い箇所があり、彼自身この難所を勢いに任せずに非常に明晰に演奏しており、技巧をひけらかすだけのヴィルトゥオーゾとは一線を画しているといえるであろう。

〔コリア:『チルドレンズ・ソングス』から第1,16,17,14番〕
チック・コリア(1941-)はアメリカのマサチューセッツ州に生まれ、4歳からピアノをはじめた。伝統的なスタイルのジャズだけではなくラテン・ジャズ、フリー・ジャズ、フュージョンなど非常に幅広いスタイルの音楽を手掛け、また即興を含まないモーツァルトなどのクラシック音楽の演奏や、ハービー・ハンコックとの共演でバルトークを取り上げたりもしている。
この作品は第1番が1971年に書かれ、それ以後さまざまな編成により、たびたびアルバムの中に組み込まれて発表されてきた。コリアは83年に全曲を完成、録音もしている。
彼は68年以降、電気楽器に取り組んだ先駆者の一人であり、そのような時期にアコースティックピアノを想定して作品を書いたのは非常に興味深い。同時期に、内部奏法やクラスターを含む自由な全曲ピアノ・ソロのアルバム『Piano Improvisations』を制作しているのも注目に値するであろう。

ベリオ:作品番号獣番 (日本語訳詩:宮本楓峯昭(宮本文昭))

Pf.鈴木孝彦

マルク=アンドレ・アムラン(1961-)はカナダ生まれのピアニスト。彼については父ジルなしに語ることはできないであろう。アマチュアのピアニストであったジルは、譜面の出版されていない複雑な作品をレコードから採譜してしまうほどの秘曲マニアで、ゴドフスキーによるショパン・エチュードの譜面が復刻された際に最初に注文した一人でもあった。またピアニスト、ルドルフ・ガンツ(1877-1972)の本で読んだ「symmetrical inversion(直訳すれば対称的反行)」という練習法を息子に教えたことも特筆に値する。ピアノの中央の“レ”(一点 ニ音)を中心にピアノの鍵盤を線対称にとらえ、右手と左手を鏡写しのように弾く練習法で、非常に頭を使い、脳と手を直結させるものであった。
アムランは、自身のレパートリーがマニアックと称されることについて、「パーフェクトでない作品は演奏すべきでない、なんてことはないんです。友達だって必ずしも完璧な人間ばかりではないでしょう? それほど好きでない部分があってもありのまま受け入れることだってあるはずです。」(毎日放送制作TV番組『アムラン 超絶のピアニスト』より引用)と述べている。これは、ややもするとソナタなどの重厚な作品ばかりを崇めてしまいがちな愛好家に対する反論と言えるであろう。
アムラン自身によれば、この作品はアルカンとゴドフスキーへのオマージュであり、題名も明らかにアルカンの同名の作品を意識している。第9番「ロッシーニによる」は4~5日で書き上げられた作品で、ロッシーニ作曲「ラ・ダンツァ」を基にしている。リストも同曲を基にした作品を書いており、この曲の中でも引用されている。第3番「パガニーニ=リストによる」は大練習曲の方の『ラ・カンパネラ』を基にした、非常に演奏困難な作品であるが、ただいたずらに技巧的なわけではない。主題が最初からカノンになっていたり、最後の方では主題とコーダの旋律が組み合わされたりと、非常に緻密に書かれている。
偉大な先人たちへの尊敬と同時に、先人たちを超えようとする意気込みも感じられる、まさに現代を代表するコンポーザー・ピアニストとして、アムランの面目躍如たる作品といえるであろう。

ベリオ:作品番号獣番 (日本語訳詩:宮本楓峯昭(宮本文昭))

Cl.市川徹 Cond.和田一樹 Jazz Ensemble 2009

偉大な指揮者として知られるレナード・バーンスタイン(1918-90)は、元来作曲家を志し、活動の初期には指揮の仕事を断ってさえ作品を書くことに執着していた。またピアニストとしては、自作自演や歌曲の伴奏などに加え、ラヴェルやベートーヴェンなどの協奏曲を積極的に弾き振りした。そうした活動が、結果的には指揮者としてのキャリアを築く礎となった。
この作品は、ストラヴィンスキーに『エボニー協奏曲』を委嘱したことでも知られるジャズ・クラリネット奏者ウディ・ハーマンの依頼により1949年に書かれた。しかしハーマンは作品に反応を示さず、その後親しくなったジャズ・クラリネット奏者ベニー・グッドマンによって、55年にバーンスタインが手掛けたテレビ番組内で初演された。編成からもわかる通り完全にジャズの響きがするが、極端な変拍子をはじめ、混み入った対位法、最後のリフでは既出の主題の再現など、クラシックの技法を用いて緻密に作曲された野心的な力作である。

ベリオ:作品番号獣番 (日本語訳詩:宮本楓峯昭(宮本文昭))

Sop.大崎花子 Alt.窪瑶子 Ten.吉村敏秀 Bass.鷲尾祐樹 Vn1.常光今日子 Vn2.須原杏 Va.伊藤綾子 Vc.宮尾悠

カナダのトロントに生まれたグレン・グールド(1932-82)は、特異な演奏スタイルや音楽観、コンサート活動からの引退、様々なメディアへの露出などで知られ、没後四半世紀を過ぎた現在もなお話題に事欠かない人物である。そんなグールドももとは作曲家を志し、「ピアノはお金を稼ぐには都合のよい方法で、このおかげで私は作曲できる」(宮澤淳一著『グレン・グールド論』より引用)と述べ、ピアニストとして米国デビューの直後ですら「10年か15年後には、私はピアニストとしてではなく、主に作曲家として名を知られていたいものです」(同上)と語っていた。実際に作品番号を付された作品は弦楽四重奏曲だけであったが、他にも幾つか作品番号のない作品が残されている。
今回取り上げる作品は、グールド自身が出演したドキュメンタリー番組『フーガの解剖学』のために作曲された。グールドの手による詞はウイットに富んだものだが、フーガだけではなく作曲に対して抱いていた考えを垣間見ることができ、笑いの中にも、満足のいく作品を書くことができないグールド自身の自嘲的な要素も感じることができる。今回は、グールド研究の第一人者である宮澤淳一氏が1992年にテレビ放送用に作成した日本語訳で演奏することにより、作曲という行為の苦悩をわかりやすく伝えたいと思う。
曲は基本的にフーガのスタイルを用いてフーガを作曲する人の気持ちを描くというものであるが、通常のフーガとは違いかなり自由な部分も含まれている。顕著なのはバッハとワーグナーの引用部分であろう。ワーグナーの作品はすぐにフーガという言葉とは結びつかないかもしれないが、短調にされた上で引用されるマイスタージンガー前奏曲(グールド自身によって2台ピアノ用に編曲もされている)が、非常に対位法的な要素の強い作品であることは忘れてはなるまい。

ストラヴィンスキー:兵士の物語 (日本語上演/脚本・演出:榎本三和子) 第一部 1.兵士の行進曲  2.小川のほとりの音楽  3.兵士の行進曲  4.パストラーレ  5.パストラーレ  6.小川のほとりの音楽  7.小川のほとりの音楽 第二部 8.兵士の行進曲  9.王様の行進曲  10.小さなコンサート 11.3つの舞曲  12.悪魔の踊り 13.小さなコラール  14.悪魔の歌 15.大きなコラール  16.悪魔の勝利の行進曲

Vn.兵頭亜由子 Cl.勝山大輔 Pf.金子三勇士

今日でこそ20世紀を代表する作曲家の一人として知られるベーラ・バルトーク(1881-1945)であるが、生前には作曲家として十分な評価を受けたとはいえないであろう。1905年のルビンシュタイン・コンクールでは、―バルトーク自身は何にもならなかったと述べているが―、自作自演により作曲部門とピアノ部門の両方を受験している。(その時のピアノ部門の優勝者はかのバックハウスであった)ピアニストとしてはリストの孫弟子にあたり、その後ブダペスト(現リスト)音楽院でピアノ科の教授を務めた。自作自演のほか、ベートーヴェンやドビュッシーを名ヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティと共演した録音をとおして実際の演奏に接することができる。
そのシゲティから当時人気絶頂であったベニー・グッドマンを通して委嘱されたのは、明らかに商業的で実用目的としたピアノ伴奏付きのヴァイオリンとクラリネットのための二重奏曲であった。しかし委嘱者の思惑とは裏腹に、最終的にはバルトークが作曲家としての欲求を優先したことにより、ピアノが伴奏ではない、本格的な三重奏の室内楽作品となった。
第1楽章はヴェルブンコシュという兵隊の入隊式で演奏される舞曲。シゲティによれば、おそらくラヴェルのヴァイオリン・ソナタ(遺作)の第2楽章「ブルース」からの影響があり、後半にクラリネットのカデンツァが用意されている。第2楽章はピヘネー(休息)と名付けられ、ヴァイオリンとクラリネットが極端なまでに同等の扱いを受けている。第3楽章はシェベシュ(速い)と題されており、ヴァイオリン、クラリネット共に持ち替えを含み、ヴァイオリンのカデンツァが用意されている。全曲はシゲティ、グッドマン、バルトークの3人によって初演され、録音も残されている。